牧師の書斎より その1『雲泥の差』
   
 

「自分は偶然生まれてきた」と信じていることは,よくよく考えると実に恐ろしいことであると思います。偶然というのは・・・いわば,何かのはずみで起ってしまったということです。ですから,偶然生まれてきたと思っているということは,自分は何かの間違いで存在していると考えているということです。したがって,自分の存在をそのように信じている人は,自分は無目的で存在しているという考えの基に生きてゆくことになります。

勿論,そのような人でも,一時的には,家族や友人や社会から必要とされているかのような思いにある時は,人生の目的をそこに感じて,元気にしておられるのかもしれません。しかし,そう思えない時がやって来ると,そのように信じている人たちは,たちまち,己の人生に何の意味も,何の価値も見出せなくなってしまうのではないでしょうか。 「自分は偶然生まれてきた」このような妄想に包まれて生きてゆく,その人生はまるで生き地獄のような人生であると私は思うのです。

一方,聖書の信仰によって生きるとは,「人は造り主の必然によって存在している」と信じてゆくことです。したがって,その人たちは,「自分は目的をもって造られた存在であって,造り主の愛の御業のために必要とされている器である。」という自己理解を基に生きてゆくことになります。 この両者には「雲泥の差」があると私は思うのです。

4月の礼拝では創世記の一章から宣教をいたします。創世記一章が私たちに語っていること・・それは被造物のメカニズムについての説明ではありません。  神に造られた私たちの人生とはどのようなものであるのか・・正に,そのことがメッセージされているのです。それは私たちの人生の基礎の基礎です。この創世記一章で語られているメッセージを土台にして,主をほめたたえつつ力強く歩んでゆこうではありませんか。


牧師:北澤正明