牧師 の書斎より その17『鼻息』
   
 

ケセン語訳聖書というのをご存知でしょうか。
これは,ケセンという外国の翻訳聖書のことではありませんで,ケセン語聖書とは,宮城県の気仙沼地方のお国言葉に訳された聖書のことです。 訳者は,この地で医師をしておられるカトリック教会のクリスチャン,山浦玄嗣(やまうらはるつぐ)師です。この山浦先生は,マタイ5章3節(新改訳聖書では,心の貧しい者は幸いです。と,訳されている箇所)をこう訳されています。
「頼りなく,望みなく,心細い人は幸いだ。」

この訳について,先生はNHKの教育TVでこう説明されていました。
「原語でこの心という言葉は,息とも訳せる単語です。日本語で,鼻息が荒い人という言い方がありますが,イエスさまは,鼻息の荒い人は実は不幸な人で,この反対の人こそが本当は幸いである,とここで言っておられると,私は思います。そこで,このように訳したのです。」

確かに,威圧感があり,自己主張が強く,自分以外の人の意見を押しのけながら生きている,鼻息の荒い人を時々見かけます。しかし,こういう人物に「男の魅力を感じる」という女性もいないわけではありません。「存在感がある」などと思うのかもしれません。しかし,山浦先生が言われるように,そのような人は本当は不幸な人なのではないでしょうか。(特に,女性のみなさん。お気をつけください。)いやいや,鼻息の荒い人は男性とは限りません。(男性のみなさんも気をつけましょう。)

しかし,もしかすると・・鼻息の荒い人の方が,この世では幅を利かせていることが多いのかもしれません。そして,時には,「頼りなく,望みなく,心細い人」にも,厳しいことばをあびせているのかもしれません。
しかし,まことの神さまは,この「頼りなく,望みなく,心細い人」と共におられて,そのようなお一人一人こそ愛しておられるのです。ケセン訳聖書は,その神さまの哀れみ深さがとてもよく伝わってくる訳であると私は思います。

今,私たちの教会を見渡しても,特別,この「鼻息の荒い人」はお見受け致しません。しかし,元々原罪の血筋にある私たちはいつでも,この「鼻息の荒い人」に変質してしまう,いや,鼻息の荒い人に回帰してしまう,そういう可能性がある,ということを覚えておかなければなりません。また,教会は,丁度山小屋のように誰をも拒みません。ですから,鼻息の荒い人がいつまたやって来るかもしれません。

「会堂建設で一致してゆく」という課題に取り組んでいる私たちは,今,このことを学習する恵みのうちにある,ということを覚えたいと思います。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから。」マタイ5:3


牧師:北澤正明