牧師 の書斎より その20『パリサイ人に学ぶ』
   
 

先月の礼拝では,マタイの福音書12章を学びました。そこには,パリサイ派の 人たちの安息日に対する歪んだ考え方が浮き彫りにされていました。このよう な箇所を現代のキリスト者たちが読みますときに,どうしてもパリサイ派の人 たちの浅はかさ,滑稽さに思いが行ってしまいます。しかし,その彼らの歪ん だ考え方はどこからきたのでしょうか。そういう視点で,もう一度この箇所を 読み直し,彼らの当時の心境を思い返してみますと,私たちは意外にも,彼ら から,大事なことを教えられるのではないか,と思うのです。

「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」という戒めは,十戒の中で最も長く その説明がなされています。なぜか。おそらく神さまは,私たちがこの戒めを さほど重要なことではないと思いやすいことをご存知で,この戒めが,神さま と共に生きてゆくために極めて重要なことであることの説明が必要であること を覚えられたからではないか,そう私は想像するのです。

私たちキリスト者にとっての安息日は言うまでもありませんが,復活された, 主イエス・キリストと弟子達がお会いした,週の始めの日,主の日ですが・・ では,私たちはこの主の日に,様々な世のわずらいから離れて,主の御前に出 てゆくことがどれほど重要であると考えているのでしょうか・・・。私は,こ の点だけは,私たち現代のキリスト者たちが,あの新約聖書時代のパリサイ派 の人たちに負けているように思えてならないのです。勿論,彼らは歪んでいま した,しかし,その熱心さは相当なものでした。余りの熱心さゆえにそれは滑 稽なほどでした。  そして,その方向違いの熱心さゆえに,何と彼らはイエ スさまへの殺意を抱いてしまったのでした。

現代生活は確かにその大事な戒めを大事にしてゆくことの困難さに満ちていま す。ですから,私たちは,主の日の礼拝を守ることについて,決して律法的な 見解を持たないように注意すべきです。私は,皆さんが毎週毎週できるかぎり 主の日の礼拝に出席しようと,この世にあって精一杯の闘いをしておられるこ とを知っています。もしかすると競争社会の代表である東京は,世界で最も安 息日を聖なる日とすることの困難な場所の一つなのかもしれません。また,あ る方は体力のなさゆえに,また,ある方は家族の反対ゆえに厳しい闘いを強い られておられます。

私たちはどんなに安息日を聖なる日とすることが困難であっても,この恵みに 与るための熱心さを失わないようにしようではありませんか。現代の東京にあ って,あのパリサイ派にも優るとも劣らない熱心さをいつも心の奥に秘め,こ の地上での終わりの日まで闘い続けていこうではありませんか。

「安息日を覚えて,これを聖なる日とせよ。」 出エジプト20:6
「週の始めの日の朝早くに よみがえったイエスは・・」 マルコ16:9
「いっしょに集まることをやめたりしないで,かえって励まし合い,かの日が 近づいているのを見て,益々そうしようではありませんか。」 ヘブル10:25


牧師:北澤正明