牧師 の書斎より その27『踏込み』
   
 

先日,車に乗っているときに,ラジオからこんな声が聞こえてきたので,私は,「ん・・」と思いました。「さすが,横綱の踏込みは違いますねえ」 それは昔懐かしい大相撲のラジオ実況の声でした。この時,私はその懐かしさよりも,相撲解説者が言ったこの一言に注目したのです。「さすが横綱は,踏込みが違う・・」 この後,この解説者はこうも言っていました。「この踏込みがあることが強さなんですねえ」 一歩の踏込みが有るか無いかは,強さの大きな決め手になると言うのです。

これはキリスト者の信仰に於いてもまったく同じことが言えると思います。強い揺るがない信仰者にはこの「踏み込み」が有るのです。初代教会に向かって,使徒パウロはこの踏込みの大切さを盛んに説いています。どこからの踏込みかといいますと,「誰もが持ちそうな信仰」,「だれもが祈りそうな祈り」からの一歩前への踏込みです。

Uコリント12:7でパウロは自分の肉体にトゲが与えられていると告白します。 彼には激しい発作をともなう持病があったのです。この病は彼の伝道活動にマイナスになると思い,パウロは,この病を去らせてくださるようにと主にお願いしたのですが,病はそのままでした。しかし,そこで彼は,次のような御声を聞きます。「私の恵みは,あなたに十分である。というのは,私の力は,弱さのうちに完全に現れるからである。」

また,ローマ書5:3-4 でパウロはこう語っています。「患難さえも喜んでいます。それは患難が忍耐を生み出し,忍耐が練られた品性を生み出し,練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」そうです。パウロは,迫害,投獄,事故,自然災害,教会の混乱分裂・・そういう深刻な患難に次々と襲われていました。しかし,それらすべてが実は恵みであることを語るのでした。

病気,経済的困窮,疲れ,老い・・こういうものが襲ってくる時,私たちは普通それをどう受けとめ,そのことをどのように祈ってゆくのでしょうか・・。 「誰もが持ちそうな信仰」「誰もが祈りそうな祈りは」 やはり,それを恵みとは思わず,心の奥底では,忌わしいこと不幸なことと思い,その忌わしことからなるべく早く脱してゆくために,神さまにひたすらお願いをする,という信仰ではないでしょうか・・。しかし,そこから一歩踏む出すこと,そこから前に踏み出す信仰者こそ強い信仰者となってゆく,使徒パウロはこのことを熱く説いているのです。

私は,どんな出来事があっても,それを静かに受け止めてゆかれる敬虔な信仰者とのお交わりをさせていただくとき,いつも心から思います。「そうだ,この方のような踏込みのある信仰者に,私もいつかなってゆきたい・・。」


牧師:北澤正明