●牧師
の書斎より その31『人という字は』 |
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いつ頃からでしょうか。「人という字は,人と人が支え合うことを表している字。 だから,人と人は支え合って生きてゆくものなのです。」と,多くの人が言うよう になったのは・・。これは,どうやら,あの「テレビドラマ金八先生」のセリフ から全国的に広がったことのようです。 つまり,脚本家の小山内美江子さん(おさないみえこさん)の言葉が元になった ようなのです。その時のセリフはこうです。「人は人によって支えられ,人の間で 人間として磨かれてゆくのです。」・・なかなかの名セリフです。 しかし,これには国文学の先生たちに異論があるようです。「人というこの字は, 本当は一人の人が立っているその姿を現したものだ。」というのです。 では,これは小山内さんのオリジナルなことばなのかというと,そうでもないよう です。彼女によると,女学校時代の校長先生がよくこのように話されていたという のです。では,その校長先生は,誰の影響を受けたのでしょうか・・。これが, どうやら,日本の教育界に大きな影響を残した,あの新渡戸稲造先生のようなの です。新渡戸稲造著「世渡りの道」という本の中にはこんなことが書かれてあり ます。 「人という字は,二本の棒から成り,短い方が長い方を支えている。」 如何にもキリスト者らしい発想です。人を単独では考えなかったのです。 では,人に関するこれらの言葉が生まれていった,その元の元になっていた聖書 には,いったいどのように語られているのでしょうか。 私は,このことに関して,最も的確な聖書個所は,ガラテヤ5:13ではないか, と思います。ここには,こうあります。 →「愛をもって互いに仕えなさい。」 金八先生のセリフと違うのは,「支え合う」というのと,「仕え合う」という違い です。私もよく,教会の奉仕の中で,また祈りの中で「支え合いましょう!」と いう言葉を使ってきたように思います。しかし,よくよく考えてみますと,この 「支え合いましょう。」というのは,聖書の「仕え合いなさい」という言葉を少し 薄めている言葉ではないかと思えてなりません。では,この私はなぜ,無意識に, 薄めてしまったのでしょうか・・。(自分を余り追い込まなくてもいいかもしれ ませんが・・)それは,やはり,この「仕え合う」ということの困難さを避ける 思いが私の中で無意識に働いているからではないか,そう思えてならないのです。 聖書の「仕え合いなさい」というのは,支え合うことよりもっと積極的な意味が あります。突き詰めて考えると,自己中心の思いの中にいる私たち生まれながら の人間には出来得ない行為です。しかし,このように聖書が私たちに出来得ない ことを薦めてくるとき,そこには,「新しく生まれ変わったあなたならチャレンジ できます。聖霊なる神のお働きに期待することのできる,あなたならこのことを 祈りつつ取り組んでいくことができます。」という励ましのメッセージがあるの です。ですから,愛する皆さん。私たちは,あらゆる生活の場で,隣人に仕える ことをこれからも諦めずに挑戦し続けてゆこうではありませんか。諦めないキリ スト者はいつの日か小さくとも確かな実を見ることができるからです。 しかし,主はいつも結果を問う方ではない,ことを忘れてはなりません。 主は,尊いことに挑戦し続けている,その生き方そのものを喜んでくださる方 なのです。 私は牧会生活30年を過ぎて,ようやく見えてきたことがいくつかあります。 その中のひとつは,「仕え合っているという人間関係は人にはなくてはならない こと(必要不可欠なこと)であるということです。」人はそのように造られて いるということです。そして教会には,そのことに懸命に取り組んでゆく召し (使命)があるということです。 そういうことがわかっていて,その思いが満ちている教会こそ,霊的教会である と私は思うのです。 仕え合っているキリスト者のご夫妻はいいでしょう。仕え合っているクリスチャン ホームの皆さんはいいでしょう。しかし,お一人でその信仰生活を歩んでおられる 方々は,失意のとき,悲しみのとき,生きる気力を失いそうになる時,いったい 誰がその方々を真の意味で支えることができるのでしょうか。 そうです,主に ある教会の一人一人が,神の家族として,その「仕え合うという召し」をもって 行動することではないでしょうか・・。 私たちの目黒カベナント教会は,クリスチャンのご夫妻やクリスチャンホームの 方々の割合が,日本の教会の中では比較的多い教会です。であるからこそ,私は, 「本当に支えを必要としている方々のことを見落すことがないように注意しつつ 歩んでゆく・・」このことが主に求められているのだと思うのです。 | |
牧師:北澤正明 |