牧師 の書斎より その34『祈りは真実が映される』
   
 

私たちは,自分自身の心の中が本当はどうなっているのか,いつもよく見えて いるものなのでしょうか・・。 キリスト者である私たちは,「神様を愛し,隣人を愛し,神様を信じ,いつも 喜びつつ隣人に仕えている。」そういう心で生きていることを理想としています。 しかし,本当の私たちの心の中の実態は,どうなっているのでしょうか・・。 理想通りになっているのでしょうか,それとも,理想からは大きく離れた心で 生きている者なのでしょうか・・。これは,実に,気になるところです。

しかし,この「自分の心の中の真実」が,とてもよくわかる方法があります。 それは,祈りです。祈りは決して嘘がつけません。祈りはその人の心の中を映 し出すものだからです。たとえば,心の中に,自分の信仰が立派であることを 周りの人にアピールしたいという思いがある場合,その人は,人前に実に立派な 祈りをしてしまいます。 しかし,そのような思いのまったくない人の祈りは 心砕かれた小さき者の真実の叫びとなるのです。自己実現の思いが常に心の中 にある人は,やはり自分の願い事をいつも祈ってゆくことになり,その様な思い の全くない人は,神さまの願いに自分の身をささげてゆく祈りとなるのです。 心の中に受け売りの信仰しか未だ育っていない人の祈りは,やはり,他の人に まねた言い回の祈りとなってしまいますが,祈りこそささげものであることを 理解している者の祈りは,神さまにささげる言葉を自分自身で探しながらのオ リジナルな言葉のささげものをするのです。つまり祈りは己の心の中を知らせ, 信仰を成長させてくれる最高の教師なのです。
これからも,祈りに励んでまいりましょう。

ここで,実際にささげられた祈りを紹介したいと思います。
(三浦綾子著自伝的小説「道ありき」からの抜粋です。)

八月二十四日,三浦光世は三度訪ねてきた。
  開け放った縁側に,夏の陽が眩しく照り返していた。
帰るとき,彼はわたしのために祈ってくれた。
「神様,わたしの命を掘田さんに上げてもよろしいですから,どうかなおして あげてください」  わたしはこの祈りに激しく感動した。
この時まで,わたしのためにこのような祈りをしてくれた人は一人もいなかった。 そしてまた,わたし自身も,人のために命を上げてもよいなどという祈りなど, 未だかつてしたことがなかった。 思うことと,祈ることとは別である。(中略)
「思うこと」と「祈ること」は似ているようだが全く違う。 自分の命を上げてもいいと祈り得るほどの愛と真実など,容易に持つことは できないものである。 しかし,そのできがたい祈りを三浦は真実を込めて祈ってくれたのである。

真実のくちびるはいつまでも堅く立つ。(箴言12:19)


牧師:北澤正明